悲から生をつむぐ 「河北新報」編集委員の震災記録300日

まえがき

東北の人々が未来永劫忘れることはないであろう、2011年3月11日午後2時46分。雪と寒さのあの日から、春が訪れ、夏が来て、秋が過ぎ、冬を越してまた新しい春を迎えるというの に、時はまだ止まったまま、そのままずっと続いているような思いがあります。

日記のように書いてきたブログ「余震の中で新聞を作る」は、震災4日目の3月14日が始まりでした。仙台市青葉区五橋にある河北新報社5、6階の編集局内は当時、泥だらけの長靴、防寒着姿で被災地から戻り、また新たに出発する記者たちが行き交って夜中まで騒然とし、想像を絶する各地の津波被害を告げる原稿や写真が次々と飛び込み、被災者の悲嘆の声を見出し1本に込めるにも血を吐くような、戦場さながらの日々が続きました。

翌々日の16日早朝、私も石巻へ、最初の取材に出発しました。が、それまでの間、未経験で明日も分からぬ渦中にあって、「自分にもできることはないか」と自問していました。

私事を話せば、仙台の南隣、名取市にある自宅は、山の上の団地ゆえに被害を免れましたが、心に重い石のように抱えていたのは郷里のこと。のどかな人情、豊かな海の幸、夏の野馬追と相馬盆唄。そんな田舎の相馬市に80代の両親が暮らします。南に約45キロの東京電力福島第1原子力発電所が異常事態をきたし、水素爆発が起き、建屋の屋根が飛び……。そんなニュース映像を延々と見せつけられ、放射線の危険、メルトダウンの可能性が報じられるたび、大破局と古里喪失への絶望感が去来しました。「放射能なんて、この年になると怖くもない」という親の言葉に甘え、離れたまま無力な自分自身に憤りながら。

近くの席にいる女性記者は、岩手の三陸の町にある実家としばらく電話が通じなかったそうで す。大津波の被災地、三陸からは連日、息をのむばかりに凄惨な状況を伝える記事と写真が送られ、他紙にも「壊滅的」の3文字がありました。その町をのみこむ巨大な壁のような津波の写真も載りました。どのような思いで見ているのか、と胸が痛みました。

また別の同僚は、自宅が地震で被災し、宮城・牡鹿半島の町で一人暮らす親の安否も不明とな り、津波による途中の道路冠水で現地にたどり着くこともできない、との深い悩みを胸にしまい込んで、隣席で黙々と原稿に向かっていました。東北に生きる新聞社の一人ひとりが、日常生活を、そして古里を、肉親や大切な人を津波や原発事故に巻き込まれ、取材者でありながら被災の当事者となったー。それが、3月11日の震災がもたらした体験です。

生活文化部長をしていた2009年8月から「Café Vita」(河北新報の地域SNS『ふらっ と』)というブログを書いていました。上司の太田巌編集局長、佐藤和文メディア局長に相談 し、「部や記者たちの仕事を広く伝え、ネットユーザーを新聞紙面につなぐ」との狙いで、取材で日々出合う「くらし・文化」の話題や記事の紹介を始めたのがきっかけです。ネット部門ではない、編集局の人間がブログを書くのは、河北新報では初めてでした。

「余震の中で新聞を作る」を新たにブログで書き始めた理由は、まず、「震災下の新聞、記者が 日々、何をしたのかを記録しなくては」と思ったこと。編集局の仲間が震災報道に総掛かりとなる中で、誰かが記録者としての役割を担わねばならない、それもまた(齢を重ねてなお現場の書き手をしている)編集委員の自分の仕事なのではないか、と。

2005年8月末の米南部ルイジアナ。ハリケーン・カテリーナの大水害で新聞社の輪転機が稼働不能となる中、記者たちがとどまってブログによる情報発信を続けたという地元紙タイムズ・ピカユーンの話も思い出されました。大地震の翌2日、河北新報は8ページの新聞発行から復旧の歩みを始めましたが、製紙工場群の被災による紙不足の危機をも超え、発信が可能なブログの可能性を今こそ試してみる時ではないか、とも考えました。

ブログで付き合いの深いメディア局では、震災発生から15時間半にわたってインターネット回 線が断絶し、KOLNET(ニュースサイト)やメールが使えなくなりました。しかし、「『ふらっと』と携帯版ニュースサイトのサーバは本社外(兵庫県や東京)にあったため、試行錯誤の末、通信カードを使って接続することができた。以後、両サイトを通じて当日のニュースを更新、発信した」という同僚たちの尽力による復旧がありました。

3月14日の16時49分に投稿した初回は、地震直後の編集局内の状況を体験したままにつづりま した。その夜のうちに、「電気が来ず、ラジオの準備もしていなかった私が地震の規模を理解したのは、配達された河北新報でした」「同じ業界の人間として、『河北さんは無事、新聞を発行できているのだろうか』と陰ながら心配しておりました」など4通の返信があり、暗闇で命綱につながった相手のように感じて、また夢中で返信をしました。紙の新聞にとって新たな「つながる手」となれるブログの存在を再認識した瞬間でした。

私自身も被災地の現場を歩くようになり、多くの記者たちと同様、まず「何をしたらいいのか分からない」ほどの破壊の現場に打ちのめされました。東北を取材地とする新聞にとって、余りに広い被災地。「ニュースが伝えることのできる事実とは、大きな事実のほんの一部に過ぎない」というメディア・リテラシーの原点を思い知らされました。できることは、渦中で出会った人々の「あの日、そして、それから」を記録すること。小さな声を積み重ねていくことこそが唯 一、この震災とは何だったか、を知ることにもつながる、と。

取材行を重ねるとともにブログ「余震の中で新聞を作る」も、新聞社内から石巻、三陸、相馬 地方などの被災地へと現場を広げ、取材ノートを埋めた被災者の声や「3月11日以前」の風景、 歴史まで、漏らさず記録する場となっていきました。「私」という一人称で、その時に見たもの、聴き取った言葉、感じたことをありのままに書いてあります。現場を訪ねた経緯、出会った 人との縁、情景や会話も質問の流れもほとんどその時なされたままに。

3月26日から講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されたブログは、この本に収 録された1月5日の記事まで54回を重ね、若い同僚たちと書きつなぐ「ふんばる」という連載取 材と併行しての作業になりました。5月に計画避難を行った福島県飯舘村も、何度も訪ねてきました。「放射線は心配しないのか」とよく言われましたが、「同胞の地です。そんなの関係ありません」と答えました。「いまふんばらずに、いつふんばる?」と。取材を超えてつながる縁も生まれ、人が悲しみの中から生きる強さを紡ぎ出し、苦境から明日を探す姿に立ち会いました。「悲から生をつむぐ」という題の由来です。一記者がつづる取材記録を通してではありますが、 どうぞ、「3月11日が今も続いている」という意味を問うていただくための旅へ。