寺島英弥 「人と人をつなぐ」ラボへようこそ!

2011年3月11日の東日本大震災と続く福島第1原発事故の後、私の古里、東北には苦難の歳月が流れてきました。あの日、職場だった河北新報のテレビ画面に映った思い出深い街々への津波来襲のニュースに、最悪の事態を覚悟させられた原発事故と同胞が暮らす福島県相馬地方の運命に、浮かんだ言葉は「古里喪失」でした。

3月16日に石巻、18日に陸前高田、大船渡の変わり果てた姿に衝撃を受け、25日に相馬~南相馬の人影が見えない街に呆然とし、4月11日に「計画的(全住民)避難指示」を政府から発表された飯舘村の混乱に立ち会い・・。自分のできることは、「目にした風景、出会った人の言葉や状況、その場の匂いや音や色、それらを削ることなく記録し、伝えること。そして、同胞たちの声の発信を手助けすること」。そんな真っ白な使命感のようなものでした。

編集委員としての記事や連載のほかに、ブログ「余震の中で新聞を作る」を書き始めたのは、震災発生から3日後でした。戦場と化した新聞社の状況を誰かが記録しなくてはーというつもりでしたが、被災地に投げ込まれると、それは取材ノート丸ごとの記録になり、やがて「つなげるメディア」へと目指すものが変わりました。記者であると同時に痛み、怒りを抱えた地元の人間であり、向き合うのは傷ついた古里、苦闘する同胞―という引き裂かれた思いで、南へ北へ走る日々でした。もはや明日や来年を信じられず、いま向き合う人々とひたすら希望を探して。

震災、原発事故によって運命、生き方を変えられなかった人はいないのでは。私もそう。たとえば一生分の現実を見てきた後、フィクションを読めなくなりました。人生の仕事も自然に決まりました。何も終わらない被災地の人々の闘いや痛み、新たな問題も生まれてくる現実を、当事者の声を通して発信し、応援してくれる人を東北へとつなぐこと。古里と生業を、家族や仲間との暮らしを、懐かしい未来を共に模索してくれる人々をつなぐこと。それが思いになりました。

このホームページは、島根県から発信するローカルジャーナリストで友人、田中輝美さんから助言をいただいて作りました。私も新聞記者40年で得たスキルをこれから、それを必要とする誰かのために役立てられる、東北のローカルジャーナリストとして発信していけたら幸いです。

『誰がジャーナリストか、という設問は間違いだ。
ジャーナリズムは誰がそれをやるか、どのメディアや企業がそれを伝えるかで定義されるものではない。
ジャーナリズムというものがあるのではない。それは行為だ。情報を伝えるという行為がジャーナリズムなのだ。それは名詞ではなく、動詞だ。』

朝日新聞記者時代にご縁をいただいた桜美林大教授・ジャーナリスト、平和博さんが紹介したニューヨーク市立大学教授ジェフ・ジャービス氏の言葉です。まったく同感です。それぞれの場所に、それぞれのジャーナリズムとの出合いがあり、その人だけの使命も生まれます。ローカルジャーナリストの存在理由もそこにあります。

新しいお知らせ


被災地、東北からの発信

 「Foresight」は、新潮社の歴史ある国際情報サイトです。東日本大震災が起きた2011年、当時の安河内龍太編集長から執筆の誘いをいただき、同年8月に1本目の『東北で「復興」のスピード感を考える』が載りました。日々の新聞報道、ブログ「余震の中で新聞を作る」と併行し、筆者の郷里である福島第1原発事故の被災地(飯舘村、南相馬市、相馬市など)の「いま」を長文ルポで書いてきました。17年からはブログを引き継ぐ形で毎月掲載させていただき、それを基に『避難指示解除後を生きる』(明石書店)が出ました。


 「Cafe Vita」は、筆者が河北新報社生活文化部長時代の2009年8月から書き始めたブログです。当時、現役の編集系では初めてのブログで、職場の記者たちの仕事や“Life & Culture”にまつわる話題をコラムにして紹介しました。編集委員時代の11年3月11日に東日本大震災が発生。その3日後から「余震の中で新聞を作る」と改題して震災、原発事故の取材記録を計158回にわたって書き続けました(講談社の『現代ビジネス』にも転載)。このブログを基に、『悲から生をつむぐ』(講談社)など5冊の小著が世に出ました。


『東北には、まだ全国に知られていない多くの素晴らしいニュースが埋もれています。TOHOKU360を通じて、その息づかいや感情まで、360度全てを、あらゆる技術と手段でお届けしたいと思います。(TOHOKU360編集部@仙台のメッセージから)』
東北発のローカルニュースメディアです。

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