当事者の声から考える「震災復興」の検証~尚絅学院大学・公共社会学フォーラムから

 「公共社会学」を掲げた尚絅学院大主催の3回連続のフォーラムが今月、仙台ガーデンパレスで開かれています。日本の大学院で初めてという公共社会学専攻の講座を来春開講予定の長谷川公一さん(特任教授)がモデュレーターになり、震災復興、男女共同参画・ジェンダー、気候危機をそれぞれテーマに、大学内外の研究者、専門家らが議論しています。
 私が参加したのは、震災復興を議論した1回目。災害社会学の田中重好さん(同特任教授)、せんだみやNPOセンターの渡辺一馬さん(代表理事)と、復興庁元事務次官の岡本全勝さんが登壇しました。
 「公共」の視点から震災復興をどう考えるのか―。東日本大震災の後、被災地復旧の公共事業を担ったのは国だった。公共を「社会全体」の意味でとらえる時、実際には国が膨大な「復興予算」をもって担う圧倒的な行為者、一方的な施工者であり、古里の街も人も家も失った地元の住民はそれを~好むと好まざるとに関わら~受け入れる側。少なくとも筆者が取材してきた場で見てきた現実で、そこに数え切れぬ理不尽も生まれました。
 本来の公共とは何か?との視点で社会のありようを見直し、住民ら<当事者>も双方向でが参画する場を広げていくのが、公共社会学なのではないか。筆者はそう考えた。安倍政権時代の復興庁の責任者であった岡本さんが参加する機会は、筆者が取材現場で聴いてきた<当事者の問い>を直にぶつけ、震災復興を双方向で検証する好機ではないか―と。
 いくつも風景が浮かびました。住民が高に台移転し、守るべきものがないままに建設された巨大防潮堤、震災から11年後の今も住民の多くが戻らず「売地」「貸地」の看板が連なる広大な嵩上げ地、除染後の砂漠のような田畑跡を返して避難先の住民を途方に暮れさせ「農地復旧はうちの仕事じゃない」とうそぶいた環境省―。そうした一方通行の現実への当事者の声に寄り添い、政府内で調整を諮るのも復興庁の大切な役目であったろうが、「震災が東京でなくて、東北でよかった」と暴言を吐き、被災地の人々を傷つけるトップもいました。
 「一度走り出したら、状況の変化があっても、地元が見直しを要望しても止まらなかった」復興事業の事例を挙げさせてもらうと、岡本さんは率直にそれらを認めながら「大災害が起きれば国家予算をもって即応するのが省庁。そういう使命感を共有してきた」と理解を求めました。「集落単位の高台移転で住民と協議し、規模縮小の見直しも行ってきた」という宮城県女川町の事例を挙げる一方、し、「大きな規模の復興事業ではそれが難しかった」と振り返りました。
 教訓とは、当事者の経験と行政の対応を突き合わせて初めて検証され、<次の災害>に生かされるべきものでは? それが「公共」の意味ではないか?―と私が次に提起したのが、仮設住宅などを巡り被災者から指摘された<災害救助法>の限界の事例でした。
 「使用2年」と想定された簡易長屋で、長期の居住とその間の「家族(特に子どもたち)の成長」を想定しなかった仮設住宅。名取市閖上のある自治会長は、「空き部屋の活用や環境改善を市の担当者に訴えても、『国の法律なので』と埒が明かず、「解決力のない現場と交渉の度に徒労感が深まり、疲れ切った」と、仮設住宅の役員時代の経験を語りました。「福祉」や「生活再建支援」の視点が欠けた法律の改正を、という指摘に国はどう応えるのか?~とも岡本さんに問いましたが、時間の制約もあってか、答えはいただけず。
 「復興」の主体とは住民であり、いかに<人>と<まち>をつなげていけるか~が目標であり課題です。しかし、被災地の新しい町づくり、コミュニティ再生の問題点も帰還住民は背負います。現地再建を選んだ住民はの多くが二重ローンを抱え、公営住宅では〈公平の原則〉の名の下、出身地域(集落)を無視した入居者選抜が、高齢化の進む住民の孤立をいてきました。どの被災地でも「新しい古里」づくりへの祭りやイベントも重ねてきたが、地元の歴史を大事にすれば、新住民は疎外感を抱く、というジレンマも生まれ…。ここ数年のコロナ禍が、そうした取り組みに一層の難儀を加えてきた、と聞いています。
 フォーラムの壇上で岡本さんへ「当事者からの問い」を試みる中で、筆者が思い出したのは、2003年にフルブライト留学をした米国で参加、取材した「By the People」(リンカーンの有名な演説より)。「健全なデモクラシーは草の根の議論から創られる」という米国の伝統を絶えず更新し続けようという名の恒例の催しでした。
 フィラデルフィアの会場には地域、人種、性別、年齢、教育歴、職業、結婚未婚の別なく各地から選ばれた400人近くが、いわば全米の地域社会の縮図として選ばれ、24グループに分かれて議長役を選び、「9.11後の米国の世界での役割」を2日間にわたって議論。3日目に「市民の質問」に煮詰め、各グループ代表が、カーター元大統領の補佐官だったブレジンスキー氏にぶつけました(拙著『シビック・ジャーナリズムの挑戦』P36~参照)。こうした地域の多様な当事者による地域からの問題課題の抽出と議論、元政権担当者との双方向の議論と検証こそが〈公共社会学〉の原型ではないか、と思われました。
 筆者が紹介したのは、名取市で仮設住宅の時代から現在まで活動する尚絅学院大生のボランティアチーム<TASKI> でした。長年に及んだ避難生活で疲れきった人々を力づけ、和ませ、つなげる〈触媒〉の役割を、代々の学生たちが果たしてきました(全国の大学とも連携を組み、2011~18年の間に、のべ約7500人の学生、教職員が活動に参加)。
 尚絅学院大で筆者が担当して2年目の実践講座「当事者とつながる学びとスキル~3・11に向けて記事を書こう」では、閖上の自治会長に受講生が取材を重ねて、被災から避難所、仮設住宅から新しい街づくりまでーを「復興とは何か?」を追体験、検証し、その取り組み、成果を問題点の指摘とともに、当事者の声を記にし発信する―試みをします。
 被災地をめぐる問題課題は時と共に変容し、年1度の「記念日報道」が「復興幻想」(風化と表裏一体の)を招き、洪水のような取材に傷つけられる被災者の訴えも聴きます。3年に及んだコロナ禍も、東北の被災地への見学者の足を遠ざけ、各地の「伝承」活動や、交流による「人のつながりによる復興」への希望も各地で危機に瀕しました。
 そこにいつもとどまり、当事者の声を聴き、震災体験の新たな証言や教訓、問題や課題を発信し続け、外の人々をつなぐ「ローカルジャーナリスト」が、それゆえ必要だと筆者は考えます。実践講座<当事者とつながる学びとスキル〉は、閖上支援の歴史を重ねてきた大学の次世代の学生に〈自らも当事者〉の自覚の種を撒き、被災地の声の〈伝え手〉を育てる試みにしたい。 それも公共社会学の担い手づくりになるのでは―との提起が、筆者の締めの発言でした。