CafeVita81 「信頼の物差し」の情報を喪失した日~あれが原発事故「風評」の源だった?

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 12月6日にあった東北文化学園大の授業「マスコミュニケーション論」で取り上げたテーマは、原発事故の「風評」とメディア。8月24日に始まった福島第一原発の原発処理水放出をめぐる風評発生への懸念が大論議となり、それを授業にと思った時、頭に浮かんだのが、原発事故から間もない福島県飯館村の光景だった。
 私が取材していた飯舘村の農家の夫婦の家~民宿を営んでいた~には、原発から近い南相馬から20人ほども避難したが、間もなく「飯舘もおっかないから」と慌ただしく中通りに移っていった。新聞やテレビが「飯舘でも高い放射線量の数値」と報じ、村議だったご主人は連日役場と地元住民の間の連絡、対応に追われた。「村の大気や水、土壌を汚しているという放射性物質を、誰が、どこで測定しているのか。振り回されるばかりだ」とこぼしながら。
 「ただちに健康に影響はない』と首相官邸で当時の枝野官房長官が連日発表し、それがメディアから流れ続けた。が、地元には国、県から何の情報も届かず、村長も頭を抱えていた。幼い子どもらと暮らす母親は家族の事情で村外へ避難できず、私に「社会的に弱い人ほど情報も手に入らない。取り残されるのでは、と不安だ」と訴え、テレビを見ずにいられないが、ストレスを感じ、音の出ないテレビの前で、原発事故が早く収まることを祈る毎日だったという。
 3月末に村が出した広報の号外を授業で紹介した。県のアドバイザーとして派遣された医学者が政府発表と同様、〈外でマスクを着用し、外出後は手を洗うなど基本的な事項さえ守れば、医学的には健康でがいなく生活していける〉と講演し、村民の質問にも答えたと伝えていた。
 ところが、夫婦は「県のアドバイザーをしている専門家の先生が3人も村に来て、それまで『健康に問題はない』と語っていったのに、3人目の講演の翌日、政府から計画的避難(全村避難)方針の発表があった」と困惑し、村内は「何も信じられない」という混乱の極になっていた。村は避難のバスを仕立て、夫婦も長男の若い家族を村外に避難させたが、自分たちは「牛たちもおり、村を見捨ててはいけない」と残った。そんな選択をした村民が多かった。
 その後、村内で帰還困難区域となった地区を取材した折、四辻に残る広報版には原発事故当初、住民が毎日計測した放射線量の記録が貼られたままで、原発事故の1週間目から「95.1 52 59.2 60…」という数字が並んでいた。「おれたちは、その中にさらされたんだ」と当時の区長は漏らした。隣接する同じ帰還困難区域の浪江町津島地区の住民も同じ経験をし、「いまだに何の謝罪もない」と国と東京電力を相手取り「ふるさとを返せ」と訴訟を続けている。
 授業では、前述の官房長官発表の臨時ニュースと、続くNHKの解説の資料映像を見てもらった。当時の水野倫之解説委員と、原発事故の4年後に東京での討論会で同席し、苦渋に満ちた回想をされたのを聴いた。「原発事故は必ず起きると取材を重ね、信頼できる専門家とのネットワークもつくった。刻々と変わる状況下で、メルトダウン(炉心溶融)が起きているのではと確信しても、正確な情報を伝えたくても、裏付ける情報が政府、東電から出ず、独自取材もできなかった」
 現実にメルトダウンは起きていたが、16年6月になって東電が記者会見し、炉心溶融の公表が遅れさせる「隠蔽」を当時の社長が指示したと認めた(官邸の指示も疑われたが、枝野氏は全面否定)。住民の健康と命、地域の安全を脅かす大事故の情報を、組織が保身のため隠蔽し、当事者と国民への正しいニュースの流れを阻害し、当事者たちを置き去りにし、今に至るまで、それに誰も責任を取っていない現実。後に残ったものは「不信」だけではないか。
 原発の電源喪失にも等しかった「信頼の物差し」の情報喪失ー。信じ頼れるものない社会状況に落とされた恐怖と不信の共有体験が、12年後の処理水問題に至るまでのくすぶる「風評」の源になったのでは? そして検証も教訓ないところに、同じ事態はまた起きる〜そのような仮説を、福島の被災地の人々を同胞とする者からの伝承を兼ね、いま二十歳の受講生たちに伝えさせてもらった。