仙台育英が甲子園初の「白河の関」越え〜そして太田幸司さんの喜び
太田幸司さんの笑顔をNHKのニュースで拝見した。「東北はようやく『白河の関』の呪縛から解放された」と嬉しそうに語っていた。
けさ8月23日の河北新報朝刊に目を奪われた。1面〜末面、社会面〜2社面、スポーツ面、宮城県版を見開きにし、仙台育英高の夏の甲子園優勝一色。なにせ107年にわたる甲子園大会で東北の球児が全国制覇し、白河の関を越えて優勝旗を持ち帰るのは初。東北にとって新たな歴史の日になった。
ところが、その当日の中継を、事もあろうに家での仕事に追われて忘れ、夕方のニュースで結果を知って大後悔…。東北楽天イーグルス日本一の試合はテレビにかじりついて観たというのに。
三沢高の太田さんや、郷里と同じ浜通り、磐城高の田村隆寿さんの熱投は今でも目に焼きついている。1969年の太田さん以来、決勝は春夏13度目の挑戦だったという。4年前、金足農高の吉田輝星投手の豪球も決勝の壁で跳ね返された。甲子園の東北勢にはどこか、悔しさを越える悲愁の歴史を感じた。筆者は、戊辰戦争や貞任、アテルイまで敗者の地の宿命に思い馳せるコラムを書いたこともある。
太田さんに会えたのは1999年、『時よ語れ 東北の二十世紀』という河北の長期連載の取材で。野球解説の仕事先の大阪ドームに訪ねると、記憶のあの夏と変わらぬ爽やかな笑顔で、「でもね、甲子園で負けたから、人も記憶してくれたのかもしれないし。悔いなんて全くないんですよ」と語った。
真冬の三沢高も訪ね、野球部の後輩たちの練習も取材した。高校生の太田さんは長靴で雪上サッカーをし、紙を丸めて打ったり。そんな冬は切ない恋の日々のようで、白球に触れられない日が続くほど白球への恋しさは募ったという。「だから、春がどれほど新鮮で楽しかったか」。だから、甲子園では何百球でも投げられた、と。
松山商高との延長再試合に及んだ決勝戦では「肉体の力はもう残っていないのに、球がスパーンと走る。抑えてやろうと力む気持ちも消え、自分が一体、何回を投げているのかも忘れて」と、大観衆の絶叫も聞こえない至福の境地で、白球と一つになって遊んだ、という。「皆泣いたが、おれは泣かなかった。負けて悔しくないのはあれが初めて」と語った。記憶に残るのは「青い、青い空だった」。
いやあ、東北人だなぁ、とこちらも共感し感動したものだが、太田さんのように、ようやく「呪縛」を解かれて気持ちは晴れた、というわが同胞は多かろう。仙台育英・須江航監督の優勝後の素晴らしいメッセージのように、百余年を闘ってこの新しい歴史の日を拓いた東北の球児たちに感謝。