【CafeVita】79は東北文化学園大での授業から、『亡き人の名は傷みであり、数で表せない』です。お読みください!

【CafeVita 79】〈亡き人の名は傷みであり、数で表せない〉
渦中の記者たちも苦悩していた
 東北文化学園大の「マスコミュニケーション論」の授業で、京都アニメーション放火事件(2019年7月19日)を題材に「情報を流す」ことと「報道」の違いを受講生たちさんと考えた。それは1回で終われず、犠牲になった人たちを伝えるのは「実名」か「匿名」がよいのか~を後編として考えてもらった。
 「そうした出来事の当事者になったとして、どう伝えられるのがよいと思うか」を問うと、教室の約40人の手は「実名」では上がらず、「匿名」には過半数。事件の際には、犠牲者の名が、全員公表されるまで2度に分けて40日かかった。遺族の意向を警察が慎重に汲み、報道側も議論し個別の対応を控えて待ったという。
 報道は「実名」があくまで原則。名前は基本の「事実」であり、記者たちは誤報と冤罪、人権侵害を防ぐために「裏付け、確認」を叩きこまれる。だが、この事件では遺族への心情配慮を優先して「匿名」を求める署名活動もネット上で起き、渦中の取材記者も苦悩したという(『SYNODOS』の記事参照 https://synodos.jp/opinion/society/23288/)。
「当事者の時間」に寄り添えるか
 「私の考えは3つめ、『ケースバイケース』です」と言うと、やはり手は上がらなかった。「事実」を報じる立場に賛同するが、でも、「当事者の時間」はそれぞれに違い、その時間に寄り添うことで初めて「真実の物語」が語られる、そして時を越えて伝えられる―こともある、という理由から。
 事件の1年後、2年後~と、名前と顔を出して関西のテレビ局に取材に応じた遺族らの「その後」のニュースの資料映像を一緒に観た。家庭で子育てをしながら職場では厳しく後輩たちを指導し、それは「早く独り立ちして食べていけるよう育てたい」と願っていたから、という女性クリエイター。アニメが大好きで、自らの就職活動の苦戦を卒業作品にし、京アニで仕事をできるようになったことの喜びと誇りを恩師に語り続けた若手…。
 それらの言葉と思いを知れば、彼らの手掛けた作品を観たいと私も思い、また観た人、好きな人には、永遠の作品~愛する作り手たちと逢える永遠の場所になっていくだろうと感じた。
「平家物語」と「アンネの日記」
 一つ、例に浮かんで話したのが、〽祇園精舎の鐘の声〽の「平家物語」。源氏との権力闘争に敗れた平家の滅亡で、当時、一門は大罪を被せられ、ゆかりある当事者たちは勝者を憚り、追悼も、同情を語ることも許されない情況にあったろうし、「悪行」の深い「悪人」たちなら、時と共に忘れられたろう。しかし、そうはならず、平家の人々の名前は「あはれ」と「傷み」をもって物語られている。彼らの「真実」を残そう、と念じた当事者たちが一門の一人一人の記憶を持ち寄り、いつしか長大な「物語」に編んでゆき、琵琶法師たちが「メディア」となって全国各地で吟じ伝えることで、海に没した敗者たちの名は永遠のものになった。
 もう一つは『アンネの日記』。ナチスの捜索を逃れて街の片隅に隠れ住み、やがて見つかり収容所で亡くなった少女。第二次大戦で犠牲になった数百万人のユダヤ人の名もなき一人だったかもしれないが、隠された日記を見つけて読んだ人々が、それを残そうと努めて出版し、アンネ・フランクの名は世界で不朽となった。
 私の個人的な体験も、受講生たちに紹介した。一つは、2002年に留学先の米国ワシントンで訪ねた「ホロコースト・ミュージアム」。やはり大量虐殺されたユダヤ人たちの置かれた状況を多くの遺品、遺物から再現した展示と追悼の場が、「夜と霧」そのままに仄暗い館内にあった。その一室。頭上はるかに高い天井まで、四方の壁が無数の写真で埋め尽くされていた。亡き当事者たちが後に遺した顔、顔、顔…。楽し気な親子、ピクニックや海水浴の笑顔、寄り添う老若の一家…。残忍な暴力で断ち切られた「幸福」、あったはずの「未来」を、写真は無言の証言者となって、観る者が苦しいほどに語り続けていた。それが「事実」の力だった。
震災で同級生の死を伝えた日の新聞
 とても個人的な思いれあるものも、受講生たちに観てもらった。2011年3月25日の河北新報の画像。その2週間前の大津波で、死亡が確認された各地の人々の名前が細かい文字で紙面を埋めている。なぜ、その日だったか。当時、職場の新聞社でその紙面を開いた時、本当に偶然、目に入ったのが「三浦広子」という名前。郷里相馬の中学校の同級生で、卒業とともに石巻へ行った人だった。
 震災の前年、長らく音信のなかった後に同級生の集いに参加し、難病治療のため顔がまるくなり「昔の面影がなくなっちゃったでしょ」と言い、昔の名字のまま、不自由な体で仕事を営む父と暮らしていることなどを、笑顔で旧友たちに語っていた。強い人だと、その時、思った。皆で駅まで見送り、その後一度電話して「また、おいでよ」と伝えた。彼女の住所が石巻市南浜町だった。
 その住所の風景は取材で訪ねるたび、見渡す限りのがれきで埋まり、広大な原野のようになり、ビジター施設と芝生のほかは何もない追悼記念公園へと変わり、もはや震災前の街を思い浮かべることもできない。また来ることができなかった同級生の最後の時はどうだったのか、なぜ、生き延びることができなかったのか。3月25日の紙面を観た時、震災と奪われた命という現実が、衝撃と共にわが事になった。それからその紙面は、お墓を知らない同級生に再会する場所にもなった。震災から12年が過ぎ、初めて人に語る話だった―。実名にまつわる、そんな体験も受講生に聴いてもらった。
「事実」を越え「真実」が語られる時
 「遺族が心を癒されるために必要なものは『3つのT』です」と以前、犯罪被害者支援の講演会で、ストーカー殺人事件に娘さんを巻き込まれた母親が語った言葉だ。それは、「Time(時間)、Tear(涙)、TalK(他者への語り)」=拙著『シビックジャーナリズムの挑戦』(https://www.nippyo.co.jp/shop/book/2594.html)、『被災地のジャーナリズム』(https://www.akashi.co.jp/book/b557223.html)参照=。そのために必要な歳月は人によっても違うし、癒されることがないまま心の傷から血を流しているのが真実だろう。私が取材の縁を重ね、声を伝えてきた自死遺族の方々、震災で子どもを亡くしたお母さんたちとの経験でも常に、その言葉は胸にあった。
 震災報道の現場で、「記念日報道」となったメディアの取材でも、しばしば遺族を傷つけたものが、「当事者の時間」と交わらぬ「取材者の時間」~〆切に追われる者の時間だった。しかし、最初は見知らぬ「他者」として被災地の「当事者」と出会った地元の記者たちは、通い続けて誠実に「事実」を伝えることで信頼の絆をつくってきたことを、筆者は知っている。
 京都アニメーション事件の取材記者たちも、苦悩しながら当事者との関係を模索した。その努力が「3つの『T』」と重なった時、初めて「事実」を越えた「真実」が当事者たちから語られ、伝えられるのだと思う。
 その日の授業でそこまで話させてもらった後、受講生たちに書いてもらった感想カードの何枚かに、「ケースバイケースも良いと思う」という言葉があった。