【CafeVita83】「やさしく思いやれる人になって。それが私の伝えたい、震災からつなげたいこと」。津波でわが子を亡くした女性は学生たちに語った。

 『すべては、多様な当事者の発する声を聴くところから始まる。そこから、記者はいかに「他者の壁」を越えて社会への「つなぎ手」になれるか、「つながる場」をつくれるか?』 筆者が米国で知った「シビック・ジャーナリズム」の原則だ=拙著『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(https://www.nippyo.co.jp/shop/book/2594.html)参照=。その実践を問われたのが、2011年3月11日に起きた東日本大震災。被災地で出会い、取材の縁を重ねた人々との縁は12年を経た今も続く。そうした当事者の方たちを教室に招いて、現場と教室をつなぐ授業を大学で試みている。
 東北文化学園大で先日あった「マスコミュニケーション論」の11回目の授業のゲストは、あの日の津波で小学6年生の三男を亡くした石巻市の鈴木由美子さん。津波から避難途中、離れ離れになったわが子との痛ましい再会。絶望から死をも望んだ暗闇の中、枕経に訪れた僧侶の「また逢える。だから精いっぱい生きろ。その先で、あの子は待っている」という言葉に再び生きる意味を見出し、それから同じ境遇の母親らと月命日の毎11日に分かち合いの集い「蓮の会」を続ける。
 鈴木さんを招いたのは昨年から2回目。この授業の受講生たちは震災があった12年前、多くが小学1年生だった。あの日の強烈な揺れを覚えている?と問うと、過半数が手を挙げた。これから年を経るごとに震災の体験年齢が下がってゆく若者たちにこそ、ニュースでは触れられない当事者の声をじかに伝え、つながなくてはと思う。
 「何年たとうと『復興』なんてない」と鈴木さん。悲しみが消えることはないし、傷が癒えることはない、苦しみがなくなることはない。だって命よりも大事なわが子を失ったのだから。悲しむのは愛しているから。あの子とまた逢える日のために、待っているあの子に恥ずかしくない生き方をする。それが生きるということの目標…。そう語った。
 それゆえ、買い物先での「元気そうだね」とのあいさつや、「いつまでも悲しんでると、息子さんが悲しむよ」「つらいことは忘れて、もっと楽しく生きたら」という言葉にも傷ついた。わが子との思い出ばかりのクリスマスも正月も、夏の花火も苦しみの時であり、頭がふと空白になるお風呂の時間や就寝時など、あの日の暗闇の渦に引き戻されそうになった。
 そんな当事者たちを、さらに傷つけてきたものがメディアだという。いくつもの出来事が語られた。鈴木さんと同じ集いのある母親は、津波に夫と二人の子を奪われた。通わせていた幼稚園の卒園式を亡き子の代わりに遠目に眺めていると、テレビの取材クルーから取り巻かれ、断ったもののやむなく、顔も名前も出さない条件で胸の内を話した。が、翌朝の情報番組ですべて映され、手にしたわが子の写真も隠し撮りされていた。
 親せきから電話があり、役所の窓口で見知らぬ人からも声を掛けられ、背中を押されて抗議の電話を掛けたが、あいまいな言い訳で逃げられたという。その人は、今でも取材者の姿を見ると恐怖に襲われ、姿を隠す。彼女の無念の訴えを聴き、私は拙著『東日本大震災 遺族たちの終わらぬ旅』(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784904863763)に記した。
 授業でさらに語られた。遺族の集いに現れた遠来の新聞記者から、一人の女性が「私も死にたいと思った」という言葉尻を捉えられ、「ロープかナイフか」と自死の方法をしつこく問われ、後日遠方の知人からファックスされてきた記事に「首にナイフを当てた」と書かれたという。記者からは何の連絡もなかった。
 鈴木さん自身も、石巻で「被災地の幽霊話」がブームにすらなった時、集いに訪れたあるネットニュースの取材者から「心霊現象はないか」「お宅に取材に伺えないか」と食い下がられた。また、3.11のテレビの取材に応じた話が放映された後、ネットの掲示板で「お前がそんなだから子どもを死なせた」などと書かれた。しかし、それらのことがあって鈴木さんは強くなろうと思い、かけがえのない「戦友たち」を守ろうと決意したという。
 それら当事者に起きた出来事が教訓として伝えられなくては―と私も、メディアの活動に携わってきた一人として聴いた。
 最後に若者たちへのメッセージをお願いすると、鈴木さんはこう語った。「語り部の方たちが『伝承』の活動されている。私が話したいのは、思いやりをもって毎日を生活してほしい、ということ。あなたたちの周りにも同じ遺族がいるかもしれない、いろんな人に思いやりをもって。きょう震災の話を聴いたな、そんな子がいたと、お母さんから話を聴いたな。これから誰かにやさしくしてみようかな、今日はやさしい一日を送ったな、そんなふうに思えるように。それが私の願う、震災の経験をつないでゆくということ」
 この日は偶然、いや偶然ではなかったのだろう、亡くなった息子さんの誕生日だった。