【CafeVita86】原発事故を次世代に伝えることの難しさ、そして被災地の「当事者が語る事実の力」を知る
東北文化学園大学「マスコミュニケーション論」年内最後の授業は、東日本大震災と福島第一原発事故を学ぶ3回続きのシリーズのうち、当事者インタビューの後編(前編は石巻の津波遺族、鈴木由美子さん)。2011年から取材の縁を重ねる福島県飯館村の農家、菅野義人さんを教室にお招きした。
菅野さんは、2011年の原発事故による全住民避難を経て、17年3月の解除とともに同村比曽地区に帰還。除染作業(放射性物質除去のための表土剥ぎ取り)で細った農地の再生に取り組みながら、地元の行政区長も担っている。
このシリーズでは1回目に「風評」を取り上げた。原発事故直後、「直ちに健康に影響なし」を避難指示直前まで繰り返した政府発表、東京電力のメルトダウン隠し、独自取材の手段を欠いたメディアの限界。「頼るべき正しい情報」と「マスコミュニケーション環境」を失った被災地の住民たちの混乱と孤立、不信のトラウマが、現在まで再燃し続ける「風評」の源ではないか―。取材体験を踏まえてこんな仮説を紹介した。
だが、現実の惨禍、1万9千人もの犠牲が時を超えて伝わる津波の恐ろしさに対し、原発事故をリアルタイムで経験しない世代には、当時の命綱だった「マイクロシーベルト毎時」という放射線量の数値の切実さを理解してもらうのも難しい。帰還困難区域になった飯舘村長泥地区で原発事故から1週間目、「95.1」(単位は同)という数値が記録された掲示板の写真を見せても、いま20歳の受講生たちには意味が分からない。私には、恐怖よりも、そこで状況を知らされぬままとどまっていた住民たちの怒りが蘇ってくるが…。
菅野さんが語ったのは、現在の行政区長としての仕事の難儀さだ。スライドで紹介してのは、原発事故前の住民たちの日常。春は地区総会、雪上の田植え踊り、水田の用水路点検と堀り上げ、夏は河川や墓地の草刈りなど協働作業、子供会の行事、盆踊り、秋は神社の祭り、伝統芸能の三匹獅子舞、年配者と子どもたちの注連縄作り…。そして、菅野さんをはじめ多くの家々の肉牛繁殖での助け合いもあり、出産などの手伝いに夜中も近隣の仲間が駆け付けた。標高600㍍の冷害も多いムラに代々根付いた「結」の絆だった。
それらの後に菅野さんが見せたのは、11年4月12日の新聞紙面のスライド。突然、政府が発表した原発周辺市町村の「計画的避難区域」地図と、【『避難区域に悔しさ 怒り』『飯舘は一時拒否』『「理不尽」憤る村民】という大見出しの新聞記事だった。
その次のスライドは、菅野さんが今でも胸が苦しくなるに違いない写真だった。「必ず帰るぞ!!、この比曽へ」という真っ赤な文字を真ん中にした寄せ書きと住民たちの顔、顔、顔。予期せぬ避難を迫られたさなかの「お別れ会」だった。それぞれの家に事情があり、牛たちがおり、避難先も探さねばならなかった。先も明日も見えぬ不安の中、住民たちの最後の頼みと励ましにしようとしたものが、互いに育て合った「絆」だった。私もその後、取材で訪れた比曽の公民館で同じ寄せ書きを見た。無人のムラの形見のように見えた。
そして、菅野さんが語ったのは残酷な後日談だった。「原発事故のあの一瞬で、住民の絆は失われてしまった」。85戸、215人の住民が支え合い、助け合った地区には、あれから12年後の今、20戸、39人が暮らすばかりだ(飯舘村全体でも、居住者は1200人余りで原発事故前の4分の1に)。それぞれの家族の事情、生きる場の選択が暗中模索され、さらに放射性物質を被った昔ながらの家々は除染ばかりか、多くが解体されて、懐かしい風景も消えていった。共同墓地に面したかつての美田には、除染土袋を積み重ねた巨大な山脈のような仮置き場が居座った(今年やっと撤去された)。
そんな現状から菅野さんは「地区の再生」の難題に取り組む。帰還した少数の居住者と、村外に新たな現住所を求めた多数の住民のどちらも「古里」につないで、それぞれにできる形で地区の集会や行事、事業に参加してもらおうと試みている。原発事故から避難の日々に住民の間には、放射線や賠償金、帰還の可能性と家族の将来などについて、思い、考え方、行き方の違いが生じ、感情や賛否の分断もあった。「昔にはもう戻れない。でも、そこから『絆』をゆるやかにつなぎ直しながら、一緒にできることをやろうと呼び掛けているんだ」。
菅野さんがもう一つ挑んできた「土の再生」は実を結んだ。除染後に石くれがむき出しになった農地で、石を一つ一つ撤去し、土地を何度も耕し、緑肥作物を育ててはすき込み、5年掛かりで今年夏、輝くばかりの牧草地を復活させた。それはまだ遠い目標への最初の成果であり、遠方に家族と避難し畜産を営む息子さんが「いつか帰ってくる日に、手渡せればいい」と語った。自らの避難に先立ち、40頭余りの手塩に掛けた飼牛を手放した日の朝、競売場に運ぶトラックの音に牛たちの哀しげな声が交じり、「自分たちのやってきたムラづくりが崩壊する音だ」と泣いたという。その日から始まった孤独な挑戦だった。
「私の先祖は、天明の飢饉でこの地に残った、わずか3戸の農民の一人だった。それからの荒れ地の再開墾し、少しずつ家族や仲間を増やし、私たちの代につないでくれた。その苦労を思えば、もっと便利な道具も機械もある今は、幸せだと思っている」
授業の最後、受講生たちが書いてくれた感想カードには、「原発事故は、今まで想像したことがなかった」「震災の被災地とは違う、『一瞬に人の絆が消えてなくなる』話に胸を衝かれた」「津波で家族を亡くした人たちの傷と同じように、新しい建物をまた造れば『復興だ』というのは間違いだと知った」と、たくさんの驚き、衝撃が記されていた。〈すべては、当事者の声を聴くことから始まる〉という「シビック・ジャーナリズム」の原則は、次の世代の若者たちへの学び、伝承にも生きていくと実感できた。