【CafeVita87 年明けから学生80人の記事添削終わる~そして、あの頃が蘇り…】

 元日に相馬市の実家を訪ねた後、家にこもっていた。大晦日を提出〆切にした課題の記事を70人分、添削して1週後の9日の授業で講評しなくてはならず。箱根駅伝の青山学院大快走を“ながら見”した後は余裕もなくなり、8日夜まで原稿とにらめっこし続けた。
 尚絅学院大の「基盤演習」という授業で、主には管理栄養士を目指す1年生に文章の書き方を学んでもらう目的で、「ローカルジャーナリスト教室 あなただけのニュース書こう」と銘打ち10回の講義で取り組んでもらった。添削、講評を添えて返信、休み明けの授業で原稿用紙に完成稿を書いてもらった。
 さらに8日の〆切で、筆者のメーンの授業である「実践講座 当事者とつながる学びとスキル」で地元名取市閖上の被災体験者を取材しての執筆記事が8人から届いた。こちらは伝承者育成とともにプロのスキルを学んでもらう狙いで、やはり添削の後、残る2回の授業で助言、推敲を経て完成させた。他に何もできず、気が付けば1月も下旬に。
 その間、重ねたのは古巣の記者時代、新人や後輩の原稿を直した記憶だった。記事は読者に届ける商品であり、誤りなく、品質も高くなくてはならない。直しに妥協はなく、〆切という非情な時間にも迫られた。筆者を隣に置いて「これで間違いないか」と確認しながら素早く、時に無慈悲に直すー。直すこちらも、是非もない役目を負っていた。
 2014年1月の3週間を費やした若者たちの原稿読みと添削の間、~文章の巧拙はあるが~、教室では無邪気に見えた一人一人と、文章を通して向き合った。それぞれが「当事者」である体験、それがきっかけの志、彼ら世代の未来に関わる問題(気候変動、AIと雇用など)、大学生になって離れた古里をめぐる思いや現実、そして幼稚園年長の出来事を克明に蘇らせた大震災の記憶…。どれもが読ませる内容であり、それ以上に、彼らの人生の振り返りと、新たな出発点にするような気概も可能性も感じさせた。
 あのころ、「直された側はいかに学べたか?」と自分は考えただろうか。自分でも常に連載企画を抱え、さまざまな調整ごと、交渉ごともあり、考えることが山ほどあった。頭の中に50ほどの仕事フォルダーを備え、てきぱきこなしてゆくことが日々の仕事だった。今は大学で出会う若者たちに自分の経験をお返しする時だ、と思っている。だが、職場で共に過ごした後輩たちには何を返せたのか?
 添削の日々の間も能登地震の紙面を読んで、胸も頭もつぶれるような震災取材の苦しさ、鬱状態の当時に戻った。遠い北陸に赴き、また鮮烈な紙面を作る現役世代を思うと、もう自分の現場ではないとの想いとともに、東日本大震災の経験を受け継ぐ世代への頼もしさが去来した。 冬ごもりした1月はもうじき終わり、新たな3月11日が巡ってくる。私は私の現場へ、これから出掛けよう。